New 【 藤岡市本郷・埴輪窯跡 】をUP(4月26日)

【上州まったり紀行】

群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館・博物館・テーマパークなど、自分で行って見てきたところを紹介しているブログ。名付けて「上州まったり紀行!」。もともとは「上毛かるた」巡り(上毛かるた紀行)から始まった「紀行もの」。


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そちらからもどうぞ(神社仏閣はいっぱいありすぎて、まとめてない)。

 

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【最新記事】

「上州まったり紀行」の最新記事(10件)です。概要と記事中の写真を載せています。

本郷埴輪窯跡はその名の通り埴輪を焼いた窯の跡。明治39年(1906年)に東京帝大・柴田常恵教授により発見されている。約4m間隔に30個を超える窯が並んでいると考えられた。窯跡のうち2基について昭和18年(1943年)・19年(1944年)に群馬師範学校(現群馬大の一部)・尾崎喜左雄教授により発掘調査が行われた。その結果、第一窯跡からは人形埴輪の顔面・腕部・円筒部などが、第二窯跡からは主に馬具埴輪が出土している。

広沢寺は天正2年(1574年)誘翁教訓の開山、黒沢兵部丞の開基である。黒沢兵部丞は武田信玄の家臣。この時期は武田氏が西上州を支配していた。なお、兵部丞は翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死したとされる。他説では開基を黒沢主計としており、主計は徳川家康の家臣とされる。主計が開基の場合、広沢寺の開創は家康の江戸移封以降となる。兵部丞、主計とも黒沢姓だが、その関係性は分からない。

「富岡製糸場と絹産業群」(富岡製糸場・田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴)が世界遺産に登録されて、昨年(2024年)で10年が経過した。それを記念して構成資産のひとつである「高山社跡」の学習施設・高山社情報館前に、高山社2代目社長・町田菊次郎の銅像が建立された(昨年11月)。町田菊次郎は高山長五郎の「清音育」に興味を持ち入門、明治19年(1886年)に長五郎の遺志を継ぎ高山社2代目社長に就任している。

八幡宮八幡宮は保元2年(1157年)新田義重が新田荘の開拓に際し、石清水八幡宮の分霊を勧請し守り神としたという。赤堀を含め岩松・大島・新井・大舘・強戸・寺井・田中の各村の八幡宮を「八所八幡」と称する。明治11年(1878年)村内の八坂神社・神明宮・石神社・琴平神社・稲荷神社・菅原神社などを合祀している。

照明寺の由緒は不詳だが、永禄年間(1558~70年)に由良成繁が市野井村字杉の「杉立山照明寺」を反町館(反町城)の西側に移し、時の住職・慈光が山号を「瑠璃山」と改めたという。そのため照明寺では開山を慈光、開基を由良成繁としている。正徳4年(1714年)に火災で焼失。享保元年(1716年)に現在の反町城本丸跡に移転・再興されている。このときの住職・祐泉を中興開山としている。

反町館の築造年代は明らかではないが、鎌倉時代から南北朝時代と考えられている。その後、室町時代に金山城の支城となり、戦国時代には三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと推定される。天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めで廃城となっている。東側の堀は道路改修の際に拡張されたもので、2倍以上の幅に広げらられている。館跡の平面形は凸字形で、南側で120m・北側で73mあり、東西南側に「折」を持っている。

放光寺は元文5年(1740年)東雲寺14世・徹音の開創と伝わる。放光寺の西側に接して般若坊屋敷と呼ばれている戦国時代に遡る伝承をもつ屋敷跡がある(現在は宅地と畑になっている)。古記録に「戦国時代に紀州根来の僧・般若坊が戦に敗れて当大字に来て住みついた」とある。また別の古記録には、当地に来たのは「享禄2年(1529年)」とある。放光寺には般若坊の位牌が保管されており、天正3年(1575年)入寂とある。

平成6年(1994年)から平成8年(1996年)にかけて行われた新田東部工業団地造成に伴う埋蔵文化財発掘調査において、古墳時代前期(4世紀末~5世紀初頭)の居館跡を中心とする遺跡が発見された。現在は「小金井史跡公園」として約1万平方mが保存されている。

宝蔵寺は至徳3年(1386年)に頼覚法印が開山したと伝わる。開基は村田氏とされる。村田氏は岩松時兼の庶長子・頼兼を祖とする岩松氏系の一族。なお開基については大舘氏明とする説もある。大舘氏明は興国3年/康元2年(1342年)に伊予国(愛媛県)世田にて討死しているので、その際の宝蔵寺創建は正慶2年(1333年)もしくは延元元年(1336年)としている。

生品神社の由緒は不詳。上野国神名帳には「従三位 生階明神」と記載されていることから、平安時代には存在していたと思われる。創建に関しては、豊城入彦命が新田地方の開拓に際し大己貴命(大国主命)を祀ったとの伝承がある。また、天喜年間(1053~57年)に源義家が当社で戦勝祈願をしたとも伝わる。生品神社は「太平記」にも記されている新田義貞が元弘3年(1333年)鎌倉幕府討伐の旗を挙げた地とされる。


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